リストコンピュータと超人願望の黄昏について考える。2011/09/01 13:26

今年のバーゼルフェアでhD3が発表したリストコンピュータウォッチ「SLYDE(スライド)」。歯車も数字もぜんぶ画像です。

携帯情報機器の世界で幾度も開発・発売されるのだけれど、発売されるたびにモノ情報誌が採り上げ、ボクのようなモノ好きのライター、編集者が記事を書く。それでも絶対にメジャーにならない、なれないアイテムがある。それが腕時計型の携帯情報機器、いわゆるリストコンピュータだ。国内メーカーならセイコー、カシオ、シチズン、エプソン。海外メーカーではタイメックス等々。そして、コンセプトではあるがマイクロソフト。1970年代から何度も製品化されている。エプソンの「クロノビット」をはじめ、いくつかはボクも持っている。でも、決してメジャーなアイテムにはなれなかったし、おそらく未来もなることはないだろう。 そのほぼすべてが、間違いなく開発エンジニア自身の情熱から生まれたものだ。売れた実績はないが、企画者がこの種のもの大好きで、「自分も作りたい」と熱望して、がんばって企画を通したに違いない。そう思えるものばかり。 でもなぜ、リストコンピュータはメジャーになれないのか。理由は手に入れて、着けてみれば分かる。今のインターフェース、何よりも腕時計の文字盤サイズのディスプレイでは、情報が読み取りにくくて仕方がないからだ。どんなに贔屓目に見ても、実用的ではない。ガジェットに過ぎないのである。 ケータイも通話がメインの時代は、特に海外には手のひらに収まる超コンパクトなモデルがあった。日本でもドコモが発売していた。しかし、メールやiモードなど情報のブラウジングが通話同様にメインの機能になると、姿を消した。 スマートフォンの時代になった今は特にそうだが、大きな画面、持ちやすく見やすいサイズでないと、使いにくくて仕方がないからだ。

でもそれなのに、ある種の男はなぜ「リストコンピュータ」に惹かれるのか。 それは、着けると超人になれる、サイボーグに変身するためのアイテムだから。ボクはそう思っている。 「超人になりたい」「あるアイテムを身に着けたり手に入れることで超人になれるんじゃないか」という感覚、いわゆる超人願望は、昔から人間を虜にしてきたものではあるが、産業革命以降、特に20世紀に入ってから、文明を牽引してきた大きなエネルギーだった。 人間の力では不可能な超高速で移動できる飛行機やクルマや電車は、そんな超人願望を叶えた夢のアイテムとして登場した。あるアイテムを身体と一体化させることで行うサイボーグ超人への変身は、この飛行機やクルマの先にある、究極の夢のひとつだったのだ。 でも今、ボクらの超人願望は、急速にしぼんでしまった。リストコンピュータに自分が昔ほど魅力を感じないのは、超人願望という夢が、昔のように魅力的には思えないからであることは 間違いない。ボクらはひとつの大きな曲がり角を曲がったのだろう。 かつて社会全体に存在した、サイボーグ的な超人願望はもはや黄昏れてしまったのだ。 スポーツカーが一部の人にしか売れないのも、クルマなんて要らないという若者が多いのも、だから必然なのだ。 でも子どもたちはやっぱり、戦隊モノのヒーローやヒロイン、仮面ライダー、プリキュアというカタチで、そんな超人願望を抱いている。 とはいえ、ボクら大人ほどではないかもしれない。 だって、今の戦隊モノのヒーローやヒロイン、仮面ライダーだって、その超人的な能力のおかげで悩んで苦しんでばかりだから。かつてほど、絶対的に強くもないしね。

ところで、リストコンピュータにまったく未来がないかというと、実はそうでもない。もしウイリアム・ギブスンの小説『ニューロマンサー』のように、人間の脳や神経回路と直結して、目の網膜を経由せずに脳内に情報を表示するような技術ができれば、リストコンピュータは、誰もが使うアイテムになるのかも。うーん、でも確信は持てないなぁ。着けるの忘れちゃいそうだし。

20世紀最高の時計デザイナー、ジェラルド・ジェンタという天才。2011/09/28 06:56

2001年のジェラルド・ジェンタ氏。撮影用の機材とセットに興味津々だった

時計愛好家の方にはいまさら、かもしれないニュースだが、20世紀最高の時計デザイナー、ジェラルド・ジェンタ氏が去る8月17日にこの世を去った。享年80歳。尊敬する偉人であり、幸運にも幾度かご本人にインタビューさせて頂き、また工房も取材させて頂いたひとりとして、僕が見たジェンタ氏のことを書いておきたい。 彼のクリエーションは今振り返っても驚異的な量と質で、まさに天才という言葉がピッタリだ。オーデマ ピゲの「ロイヤル オーク」を筆頭に、フリーランスデザイナー時代の作品は、パテック フィリップの「ノーチラス」「ゴールデン エリプス」、IWCの「インヂュニア」や「ダ・ヴィンチ(先代)」、オメガの「コンステレーション」やカルティエの「パシャ」、ブルガリの「ブルガリ ブルガリ」等々。どれも時計デザイン史に残る傑作ばかり。セイコーの「クレドール」のファーストモデルも彼の基本デザインだし、実際にどのくらいあるのか膨大過ぎて正直なところ、わからないのではないか。1969年に自身の名を冠した時計ブランドを立ち上げてからも、「オクト」「サファリ」を筆頭に、ひと目見るだけでジェンタと分かる名作揃い。1996年に彼は自身のブランドを売却したが、彼の基本デザインはブランドがブルガリの1コレクションに組み入れられた今も強烈なオーラを放ち続け、少しも色褪せない。 僕が最初に彼の世界に触れたのは確か、GoodsPress編集部でバーゼルフェア取材2年目の1996年。空き時間にジェラルド・ジェンタのブースを飛び込みで訪ねたときだ。 この時は「今年はもうフェアを去った」とのことで、残念ながらジェンタ氏ご本人には会えなかったが、ブースの担当者は快く僕を招き入れ、完成したばかりだという、ミッキーマウス「ファンタジア」の中の“魔法使いの弟子”の話をテーマにした宝石や貴石を散りばめた「からくり時計」を動かして見せてくれた。同じジェンタのミッキーマウスを文字盤に使った有名なレトログラード&ジャンピングアワー表示機構を持つ腕時計「レトロ・ファンタジー」と違い機械式ではなく電動のテーブルクロックだが、ミッキーと魔法をかけられたほうきが踊る。だが、まだ完成度が充分ではなかったようで、デモンストレーション中に、最初は普通の速度で動いていたミッキーとほうきのスピード、そして音楽が早送りでクレージーなスピードで踊ってしまうというハプニングが起きた。このときはビデオカメラを偶然回していて、あとで編集部でその映像が大ウケした。今思えば、ちょうどこの時点で、シンガポールの世界的な時計販売会社・アワーグラスに会社が売却されていたのだ。 その2年後か3年後には、ジュネーブサロンとバーゼルフェアの前後にヴァレ・ド・ジュウ、オーデマ ピゲ本社の通りにあった、現在は確かオーデマ ピゲのものになっている複雑時計工房を取材した。 こぢんまりとした昔ながらの時計工房らしい一棟だったが、設計製造や時計師の組み立て工房はとても整然と美しく、和やかな雰囲気も素晴らしかった。スタッフは、現在はフランク・ミュラーの超複雑モデルの開発にも関わっている伝説的時計師ピエール・ミッシェル・ゴレイ氏を含め全部で十数名。工作機械も日本製の放電加工機など充実しており、地板から複雑な形状のレバーやカムまで、ほぼすべてを工房内で製造する体制が整っていた。ここは当時としては間違いなくトップクラスの工房であり、今考えても僕が取材したことのある工房の中でベスト3に入る。 「モナコからFAXでジェンタ氏から送られてくるデザインスケッチをベースに、私たちがメカニズムを考えてムーブメントをゼロから設計・開発・製造して製品化するんだよ」と、ヴァレ・ド・ジュウ伝説の時計一族のひとりであるゴレイ氏が上機嫌で語ってくれたのをはっきりと覚えている。氏がかつてジュネーブのオペラ座の専属歌手だったという、時計界では知る人ぞ知るエピソードを、遅まきながら初めて聞いたのもこのときだった。 1980年代以前からという、デザインをジェンタ氏、設計・開発・製造をゴレイ氏という2人のタッグは間違いなく当時のスイス時計界最強で、1994年には「グランソヌリ」という複雑時計の最高峰モデルをはじめ、現在の機械式複雑時計全盛時代の扉を拓いた数々の傑作を世に送り出している。「ジェラルド・ジェンタ」をデザイン&メカニズムで独自性と先進性を兼ね備えた、1990年代に最も尊敬すべき時計ブランドにしていたのは、まさにこの二人の友情と信頼だったのだと、今でも思う。しかしブランド売却とその後の時計工房移転でこのタッグは解消、スタッフも解散することになる。 その翌年だったか、ヴァレ・ド・ジュウの時計工房に続いて僕は、ジュネーブ市内にあった文字盤工房も取材している。そこでは、他のブランドに先駆けて天然石を使った文字盤や、カスタムメイドの文字盤作りが行われていた。そこに飾られたDOXA(ドクサ)という時計ブランドの古いポスターは、ジェンタ氏の父と関連があるものだという話もそこで聞いた。 さらに翌年か翌々年には、モナコにあるジェンタ氏のアトリエを訪ねることになっていた。だが直前に残念ながらキャンセルされ、ついに訪れることはできなかった。 そして僕がジェラルド・ジェンタご本人にしっかりインタビューできたのは2001年、彼がアワーグラス、さらにブルガリ傘下となった自分のブランドを離れて、クリスチャンネームである「ジェラルド・チャールズ」名義の時計ブランドを立ち上げたときだった。 ご本人は終始にこやかに笑っていたのだが、マネジメントを担当している同席の奥様のアワーグラス&ブルガリに対する強烈な対抗意識が印象に残っている。1,2年後、このブランドが日本に上陸することになり、ジェンタ夫妻には日本で再会したが、お目にかかれたのはその時が最後となった。 ジェラルド・ジェンタ氏は生粋のアーティストであり、文字通り“20世紀最高の時計デザイナー”だった。氏が創造した基本デザインがさまざまな名門ブランドで製品として生き続け、さらにご本人はどう感じていたかはともかく、自身の名を冠したブランドが、ブルガリという確固たるラグジュアリーブランドの1ラインとして、今も発展し生き続けているのは、そのクリエーションがとてつもなく偉大だからに他ならない。 そんな正真正銘の天才と接点が持てたことは、時計ライターとして何よりも幸福なことだった。 心から感謝を捧げ、ご冥福をお祈りするばかりだ。